今回の記事は、『adidas(アディダス)』です。
ドイツ発祥のスポーツブランドであるアディダスは、シューズ、スポーツ用品、スポーツウェア、ファッションアイテムなど製造から販売まで幅広く展開しています。
adidasの歴史
1924
ドイツ、バイエルン北部の町、ヘルツォーゲンアウラハで、ルドルフ・ダスラー(Rudolf Dassler)とアドルフ・ダスラー(Adolf Adi Dassler)のダスラー兄弟は、ダスラー兄弟商会という製靴工場を設立。
兄のルドルフ・ダスラーは優秀な営業マン、弟のアドルフ・ダスラーは腕のいい靴職人でした。
1925
当時のナチス政権は、スポーツ振興に力を入れていました。
そこで、ダスラー兄弟は、アムステルダムオリンピックやベルリンオリンピックに出場した多くの選手にダスラーシューズを提供。
その結果、ダスラー兄弟商会は飛躍的に業績を伸ばし、国際的なブランドとして認知されました。
1939
第二次世界大戦が始まり、弟のアドルフは、ドイツ軍のブーツを作るために国に残され、兄のルドルフは、徴兵されます。
思想の違いから仲が悪くなった2人は、距離が出来てしまい、兄弟喧嘩が起こります。
1948
関係性が悪化し、二人はそれぞれ独立しました。
弟のアドルフは、ニックネーム『アディ』と名字の『ダスラー』から、『adidas』を設立。
兄のルドルフは、持ち株を全て弟のアドルフに売却し、その資金を元にして、ルドルフの『RU』と名字のダスラーから、『ルーダ(後のプーマ)』を設立。
兄弟の独立先
- 弟のアドルフは、『adidas』を設立。
- 兄のルドルフは、『ルーダ(後のプーマ)』を設立。
販売部門の従業員の多くは兄ルドルフについて行き、技術者の多くは弟アドルフのもとに残りました。
兄弟の会社は、地元の街にあるアウラハ川を挟んで対立しました。
その結果、街の住民達も影響を受けて、兄弟派閥が出来るようになります。
登校する為のバスも派閥で別れる、足元をチェックしてお互いのシューズを確認してから会話が始まるなど深刻になりました。
街のほとんどの住民が靴を意識していたので、『首を曲げた町』や『足元ばかり見ている人達の街』と呼ばれました。
1952
西ドイツの選手全員がヘルシンキオリンピックでadidasのシューズを履いて以来、オリンピックで圧倒的な支持と人気を集めることになりました。
1965
テニスシューズの『ハイレット(後のスタンスミス)』を発表し、話題となります。
1970
1970年代前後に、オールレザーのバスケット用シューズ『スーパースター』
クロスカントリー用の『カントリー』など多くの名作を発表しました。
当時のスポーツビジネスは、スポーツ選手を広告塔に利用するために、用具やウェア類を無償提供していました。
有名な選手による広告効果は抜群に影響があり、売り上げが何倍も増えました。
その為、シューズメーカー達は、有名な選手に履いてもらう為に、無償提供から有償提供へと変わっていきます。
つまり、有名な選手に大金を払って、シューズを履いてもらうビジネスへと発展していきました。
そこで、ペレ協定というadidasとプーマの争いが発生します。
『ペレ協定』
メキシコ・ワールドカップで、アーミン(ルドルフの息子)とホルスト(アドルフの息子)は、ある取り決めを交わします。
それは、『ブラジルのペレだけには絶対に手を出さない』ということです。
圧倒的な才能と人気があるペレ選手を奪い合えば金額の高騰が予想され、お互いが不利益だと判断しました。
なので、お互いにペレ選手とは提携しないという暗黙の取り決めをしました。
これが、『ペレ協定』と呼ばれています。
しかし、プーマはアディダスとの取り決めを無視して契約を結んでしまいます。
そして、ペレ選手に宣伝効果を高める為、キックオフの前に靴紐を結び直すという作戦を計画します。
作戦実行日、キックオフのタイミングで、ペレは靴紐を結び直しました。
その結果、世界中のテレビの画面にペレの靴が映し出され、プーマに計り知れない宣伝効果をもたらしました。
その後、プーマはペレのシグネチャーモデル、キングの多大な注文を手にしました。
これを見ていたadidas側は、かなり怒ったみたいですね。笑
1972
adidasの定番スニーカーハイレットを履いた『スタンスミス(Stan Smith)』がウィンブルドンを制覇。
これを機にスタンスミスの顔とサインをプリントしたスタンスミスシリーズがスタートします。
FIFAやIOCなどの国際的スポーツ組織を巻き込んで、スポーツをビジネス化していきました。
1970
1970年以降は、アドルフの息子であるホルスト・ダスラー(Horst Dassler)が経営の実権を握り、2代目の最高責任者となります。
ホルストの経営戦略は見事に成功し、adidasは、売上世界一を誇るスポーツ用品メーカーにまで上りつめました。
その後最高責任者のホルストも51歳の若さで急死し、ファミリーの間で経営権の争いが始まってしまい、adidasは迷走を始めます。
1990
フランス人実業家のベルナール・タピ(Bernard Tapie)がadidasの株式の半分以上を取得し、事実上の経営者となります。
完全にダスラー家はadidasから撤退しました。
この時、adidasは売上が低迷していて、ナイキ、リーボックに続く業界第3位にまで転落していました。
結果的に、ベルナール・タピはadidasの経営状態を立て直すことは出来ず、1992年に融資の返済を迫られ、株式を売却、経営から離れました。
1993
フランス人実業家のロベール・ルイ・ドレフュス(Robert Louis-Dreyfus)が経営権を取得、低迷していたブランドの再建を本格的に始めました。
ロベールのもとで、adidasは見事に黒字化し、復活を果たします。
1998
アディダス・ジャパンを設立、本格的に日本へ進出します。
2001
スポーツウェアのブランド、『アディダス オリジナルス』(adidas Originals)を立ち上げる。
アディダスオリジナルスって何?
1972年~1996年までの間adidas社のロゴだった『三つ葉』のロゴをシンボルマークとしてアスリート用に開発された復刻商品や、現在のトレンドを反映した新作モデル、コラボレーション商品などの幅広く展開するラインです。
2008
アディダスジャパンとリーボックジャパンが合併。
現在
初めは、兄弟2人から始まったadidasが、今では、従業員数が約57000人に増えました。
兄弟喧嘩のおかげで、adidasが成長したといっても過言ではないですよね。
町の住民もスポーツ界も色々と巻き込んだお騒がせadidasが僕は好きです。